<<私のふるさと>>
1班 野口
「ふるさと」・・それは美しい里山風景が広がる景色と幼い時の思い出が詰った地が相応しい。そのイメ-ジとかけ離れた「私のふるさと」・・・思い出記録です。私は愛知県刈谷市・・田舎の中の工業都市で18才まで育ちました。
18才で地元の会社に就職、現場実習が終わると直ぐに東京地区に異動、以後帰ることもなく、そのまま定年を迎え現在に至ります。従って私の「ふるさと」は愛知県刈谷市時々、「ふるさと」に行きますが、両親と兄を祭ってあるお墓参りだけで実家に寄らずに帰ってきます。実家・・幼少からの、いろいろな思い出が凝縮されている場所です。記憶に強く残っているのは、満州からの引き揚げ直後、小中高学生時代、伊勢湾台風、カルピスの味など特に思い出が深いです。
両親・姉・兄は、満州に転居、終戦と同時に引き揚げる途中、天津市の港の倉庫で私は生まれたのです。故に 私は 産湯に浸かっていません。排泄物が、肌に固まった時には、父は自分の舌で、取ってくれた話など帰省する度に両親から聞かされて、よくぞ日本に連れ帰ってくれた思いも重なり、何回となく聞いた話しなのに、その都度、涙・涙だった。引き揚げてくる途中には筆舌つくしがたい出来事もあったと、何度も聞きました。(涙・涙です。)
小中高は地元の学校に通いました。夏になると近くの小川に「蛍」が飛んでいた。また通学途中、人の畑から大根を抜き取り 食べながら歩いていたことを覚えています。中学の期末試験の前日に、近くの小川で「かいぼり」してドジョウをバケツ一杯採ったこと、父がそれを料理して酒の「つまみ」にしていた。
私のビ-ル好きは、やはり遺伝によるものですね。納得です!高校はバレ-部で活躍(?)丁度9人制から6人制への移行の時でした。この当時の友人と鍛えられた身体は一生ものです。友人とはいまでも連絡を取り合っています。
総じて小中高時代は、日本全体が苦労していた時代ですので「イジメ」とか「非行」などある訳なく、「従順」に「親に反抗」することもなく育ちました。
昭和34年9月26日に伊勢湾台風という、強烈な台風が愛知県を直撃し大きな被害が
受けました。我実家は、建て替えた直後だったのに、雨漏れによる被害が大きく「半壊」
の認定でした。廻りの家は「全壊」も結構あり、人が亡くなりました。
約5時間、雨戸を吹き飛ばされないように家族と押えていたのを覚えています。
学校では授業はなく、公共施設・公園などの清掃に駆り出されました。
* さいたま市は、過去に大きな災害はなかったと聞いています。良い地区ですよね。
高校時代に「初恋」なるものを経験しました。当時「交換日記」なるものが流行っていて、私達もしました。2年間続いたのかな!学校中の人が知ってしまうという付き合い方だった。本当に良き思い出です。今でも日記帳1冊、持っています。(妻了承済)当時オ-トバイに凝っていて、彼女を乗せ渥美半島をドライブしたりして・・!
でも就職して東京に異動すると同時に、いつの間にか消えてしまったカルピスの味。
昨年、同窓会で50年ぶりに再会しましたが・・・!
このようないろいろな、青春色を若干含む思い出を実家に住みながら経験してきました。
本当に純粋な青春だった。ですが「父・母・兄」が亡くなった現在では実家には寄っていません。
蛍の飛んでいた小川、ドジョウを捕まえた用水は今では家が建っていてありません。
最近、私のふるさとは「さいたま市」と思う様になりました。「さいたま市」には自分の子供達との思い出の場所が多くあるのです。
刈谷市の18年より「さいたま市」の52年の方が 圧倒的に長くなりました。
兄が亡くなった後の兄嫁は、結局は「他人」なのです。
両親・兄が入っているお墓を守っている「お寺」の住職が、故人にお祈りする気持があれば、どの場所でお祈りしても同じだよ。と聞かせてくれてから~私のふるさとは
「さいたま市」~との思いが強くなりました。刈谷市には何も残っていなし親族も遠くなってしまいました。そうです! 私のふるさとは「さいたま市」なのです。でも、しかしこれからも年に数回は父・母・姉兄と共に過ごした思い出多い、刈谷市に行くでしょう。